何かを言葉にしたい時・できそうな時と、そうでない時は、頭の作りがまるで違うような気がする。今日は久しぶりに湯船に浸かった。ここ最近なんだか縮こまって歩いてばかりいたら、体も心も縮こまってしまったのか、昨日くらいから軽い腹痛が続いている。換気扇を消したほとんど無音の浴室では、わたしは完全に守られている。
今週覚えていること、主に職場での記憶が多い。職場では基本的にぼんやりしながらも色んなことが見えているし聞こえているし、考えている。考えてしまう。おそらくはどこにいてもおなじみの杞憂に過ぎないとは思うのだけど、わたしはやっぱり心のどこかで、色んな手放したくない自由を引き換えにしてもいいくらい、仕事として何かに自分を必要とされていると、分かりやすく感じてみたいのかもしれない。この負っていなさが、不安でたまらない時がある。それと同時に、この職場に来てから、わたしの世界の見え方は少し歪んでしまっているのだということに気が付かされた。だけどわたしの見える世界を生きていくのはわたしだから、それに気がついたくらいでは、簡単にその歪みは治らないのだ。わたしも同じように(軽やかで素敵な感じに)なりたいのに、なれない。もしかしたらそういうことの積み重ねが、少しだけ最近苦しい。それでも、職場の人たちのクローゼットの服が一周し終わり、季節が一つ変わるくらいにはもうここにいる。
今日はいつもより少しだけ遅く仕事を終えたので、いつもとは違う電車に乗った。どうして日常からほんの少し(電車の時間が違うとか、本当に些細な)逸れるだけで、息継ぎができるような気持ちになるのだろう。目の細胞も息をし始めて、遠くの光が見えてきたりする。そういえば、職場で読んだいつかの文芸誌に寄稿されていた、江國香織の短編小説がおもしろかった。幼い頃から、急に自分を取り巻く世界が変わってしまう、という運命のもとで生きる主人公が出てくる。彼女の世界が最初に変わったのは小学生の頃で、その日は駄菓子屋で友だちと食べたミルクせんべいにジャムをつけなかったことがきっかけで、自分の家に帰ると知らない人が住んでいる。家の見た目は同じなのに、自分の家は別にあるという。そして近所のおばさんに保護された幼い彼女は、身に覚えのない「自分の家」に連れられ帰宅する。その家には見知った自分のおもちゃ、家具、身長が刻まれた柱までもがある。それが彼女にとって初めて世界が姿を変えた時だったが、彼女の身にはそのあとも、時折それがやって来る。途中で知らない弟が誕生したり、通っていた学校が他校になってしまったり(家の時と同じ)。小説の最後は知らない孫が誕生する展開を迎えるのだけど、彼女は「ああまた世界が姿を変えたんだな」というくらいの面持ちでそれを受け入れる。わたしはなんだかその彼女の軽やかさに惹かれつつ、わたしも「世界が姿を変えてしまった」という感覚は何となく知ってるなあと思った。そのことを思い出した。
最近ドラマ『冬のなんかさ、春のなんかね』を見ている。あまり大きい声で言うことではないが、主人公のやることなすことに、わたしはたいてい身に覚えがある。怖がりながら、見ている。今日も浴槽で最新話を見た。言いたいことというより、言葉にはできないしする必要もあまりなさそうな、感情のかけらみたいなものがどんどん生まれていく。わたしは恋愛で友人を失っているし失っていくんだろうか。わたしの幸せとはいったい何なんだろう。たくさんひどいことをして人を失望させているとは思うが、いまだに全然掴めないのだ。画面の中の主人公の掴めなさに少しだけ自分を見る。似ているのだと思う。
人との関係は不思議なものだと思う。恋愛に限らずその関係性が何であったとしても、一度でも特定の時間や思い出を共有した人たちというのはわたしの中でずっと生きている(多分互いに)。忘れたり急に思い出したり、再生したりそうではなかったり、何であったとしても、それらは全て無駄なわけではない。少し前からはそのように思っている。綺麗ごとかもしれない。でも、そうであったらよいと思う。
