Reflections-May,6

幸せだと思うことに慣れていない。というか、あまり「幸せだ」という感覚がわからない(わたしはわからないことがきっと他の人よりは多くて、これもその中の一つである。ある意味で自分の体感や持ち物としてしっくり来ないことに無理をしないという点においては、変に生真面目すぎるところがあるのかもしれない)。だからこれが今、「幸せ(?)」なのではないかと気がついた時、なるべく「幸せですねえ」と声に出して言うようにしている。みんなは何で幸せだという感覚になるのか、聞いてみたことがあるような気がするが、たいていそれはわたしにとってあまりしっくり来るものではなかった。おそらくだが、「幸せ」という感覚は自分で決めて、言い切ってしまっていいようだ。何なら、それってポジティブなことであるし、本人に委ねられた感覚であるのだから、もっともっと決め打ちしたって良いのかもしれない。

最近、職場の先輩と薄い雨の中、お昼休みに喫茶店に行って話をした。簡単に言うと、彼の恋愛相談がメインだったのだが、何やら自分も関係しているようだ。わたしの最近のモードとして、(何も後ろめたいことなどないのだが)ほとんど本心である「性別など関係なしに人は人として仲良くいられるだろう」というものがあるのだが、話題が話題だけに、少し勢いをつけて先輩の恋人への、反論をしてしまった。わたしは、そこで気がついた。わたしだってまだ全然、おおよそのことが、不安定なのである。その怒りは、自ら痛い目を見て、そこから自省し、気がついた、とうの昔に自分の中では過ぎ去ったことを、その感覚を、思いもよらぬ方向からぶつけられることに対する防衛本能なのである。わたしはまだまだ自分のことで、自分を自分の望む姿で、なるたけ長い間保てるようにすることで、精一杯なのである。まだやわらかいところを、また考えの違う人たちに無闇に突かれ、形が変わってしまうことが怖い。わたしはハッとして、「でも、それって、“かなしい” “かなしかったんだ”っていうことですよね」と言った。言葉ばかり知っている、その言葉を使って整頓された理論みたいなものを盾に管巻く自分のことを、久しぶりに反省した。違う、違うのだ。ほんとうはそんなことじゃない。そしてそういうことが多すぎる。聞いてほしいだけ、優しくしてほしいだけ、多分、たいていの物事の根本は、整頓された言葉なんかじゃ間に合わないくらい、もっと原始的で野生的なものに宿っている(かなしい、嬉しい、なんで、どうして)。大体のことは、それが複雑に絡まり切って、もうどうしようもなくなって、あたかも理路整然とした顔してラストシーンでやって来るのだ。わたしはこれからはそうなる前に全部に間に合いたい、“原始的で野生的なもの”に向き合って伝えたいし、耳を傾けたい。そうでないと、いずれ何もかも、これまでと同じようになるのだから。先輩は少し泣いた。“かなしい”という気持ちをすとんと受け止めて、泣いている人のことが、その時とても綺麗に見えた。

何より愛情みたいなものはやっぱり、分かりやすいアクションにだけ収まるものでは全然なくて、何も言わなかったとしても見ているというか、「見つめている」「見守っている」っていうものにも宿っているような気がしている これは好みの問題だけどね(2026/5/6 PM8:50)

わたしはきっと好みとして、こういう愛し方が好きだ 自分がやるのであるなら、ずっとこういう感じだと思う それは割と分かってきた なぜかそれが、一番美しいやり方であると惹かれてしまう